和歌山県田辺市本宮町・新宮市熊野川町で地域の福祉サービスの拠点を目指す社会福祉法人 熊野福祉会

和歌山県田辺市本宮町・新宮市・熊野川町で地域の福祉サービスの拠点を目指す社会福祉法人 熊野福祉会

熊野福祉会のご紹介

理事長からのごあいさつ

1、地域の歴史と文化


紀伊半島の奥深い山々に囲まれた「熊野」と聞くと何とも言えない邪馬台国ロマンを思い浮かべる人は多い。熊野国には、3つの有名な大社がある。①熊野本宮大社(土のミコト)②熊野速玉大社(火のミコト)③熊野那智大社(水のミコト)である。ちなみにミコトとは神さんのことである。熊野古道は、平安京(今の京都)からこの大社を結んだ道である。その後、都が東に移ってからも熊野詣では続き、江戸から船に乗って紀州藩の端っこ(今でい言う三重県尾鷲市辺り)から大社に通ずる道も追加された。この山道は1000年前からたくさんの人に歩かれている誇りと伝統ある道だ。普通の山道と違うのは、所々(全体では何百という)に王子跡があるということだろう。王子跡とは、その名の通り皇族や貴族が通ったことを記した目印のようなものである。小人が馬にまたがっている岩だったり、石の円柱に何か彫られていたりと様々だ。昔は、カーナビなどないし地図も簡単には手に入らない貴重なもの。そこで「本当にこの道で熊野本宮大社に辿り着くのかな?」と確認する為にも“目印”は必要だった。話は少し逸れるが、遠く離れた大西洋に突き出たイベリア半島スペイン北部の“サンチャゴへの巡礼道”でも200~300メートルおきに岩を帆立貝マークに彫ったものが地面に埋め込まれているという同じような現象が見てとれる。熊野詣では1000年前の平安時代に皇族、貴族が熊野三山へ参拝しに来たのが始まりと言われている。国内で最古の“旅行”ともいわれる。過去1000年間の間にいわゆる熊野古道ブームは3回起きている。1回目は、先程述べた平安時代。2回目は“蟻の熊野詣”と言われた江戸時代。そして、3回目は世界遺産になった2004年~現代である。また、あまり知られていないのだが、過去に高野山や伊勢神宮は身分を重視する封建的だったのに対して熊野三山は老若男女、身分に関係なく全市民を受け入れた。これと関係しているかどうかは分からないが、興味深い噂がある。三重県伊勢市の副市長がキリスト教カトリック派の総本山カテドラル(先に述べたサンチャゴへの巡礼道の目的地)があるスペインガルシア州サンチャゴ市と姉妹提携を結ぼうと話を持ちかけたところ市役所にも入れず門前払いだった。ヨーロッパ人は身分的階層制の封建社会を市民革命により廃棄し自由と平等な個人主義を勝ち取った歴史を持つ。サンチャゴ市は自ら熊野本宮大社のある和歌山県田辺市に姉妹都市にならないかと話を持ちかけたのである。

2、熊野福祉会


熊野福祉会は、平成2年(1990)5月1日に地元の有志達により創立された。昭和58年から和歌山県東牟婁郡本宮町(現・田辺市本宮町)では高齢者の孤独死が年に2,3件起きていた。当時、本宮診療所の医師だった岩倉氏は土木建設業を営んでいた中岸組の親方、中岸 厤(おさむ)に特別養護老人ホームの必要性を説いた。厤は母親を亡くし悲しみに暮れていた。厤の人生は次のようなものである。旧本宮村で貧しい家庭の8人兄弟の4番目に生まれ、兄貴達からげんこつを受けながら育った。小さい頃から父親のちゃぶ台返しやギャンブルが理由で毎日泣いている母を見て「いつか母親に良い暮らしをさせて欲しいものを買ってやりたい。」と思っていた。そんな姿が目に留まり本宮小学校5年生の時に和歌山県知事から親孝行賞を受賞した。小学6年生から母親を助けようと「オールナイト!」という真夜中の土方作業に飛び込んだ。それからずっと土木建設業一本である。人生のターニングポイントは38歳の時。父母を亡くし自身も体調を崩し入退院を繰り返す中病院のベッドの上で岩倉医師の言葉を思い出す。厤は「なんとかしなければ」と胸に炎を宿した。要するに厤は、大好きだった「自分の母親が亡くなった」こと、と本宮町で学校を卒業した子が都会へ出てしまい「誰からも看取られずに孤独死する高齢者」を重ね合わせたようである。

そこから厤は特別養護老人ホームの設立に向け、猪突猛進する。当時町には社会福祉協議会もなく、福祉施設を求める訴えも本宮町会議員から「社協もないのに、時期早々や!」とはね除けられた。急がば回れ、できることから着々と。区長になり独り暮らしの高齢者宅を訪問して話を聞きながら周った。「一人でもやる」厤は本宮町会議員に「全財産をなげうってでも特別養護老人ホームを建てる」と公約して立候補。見事トップ当選。上大野という山奥に田んぼを一枚づつ買い、2000坪になったところで宅地造成をして特別養護老人ホームの土地を用意した。しかし、和歌山県庁から「紀南は人口少ないから今あるので十分や!」とはね除けられた。急がば回れ、できることから着々と。断られても片道6時間、7つの峠を越えて中岸組のメンバーと知恵を絞って何度も紀北の県庁へ足を運んだ。すると役人の態度が少しづつ変わった。お茶をだしてくれるようになり、課長さんと会わせてくれた。陳情に通い始めて1年が経った頃、部長さんが「あの辺は温泉がでるやろ?」と温泉の話になった。厤は考えた。「温泉出たら認可おりるんかな?」。昭和63年(1988)1月、自費で神戸から温泉ボーリング業者を呼び100m10万円で500mボーリングした。するとお稲荷さん(狐の神様)の祠が出てきた。祠の場所を遷すために行者に祭事を斎行してもらうにあたり「200人が集まる場所になる」と行者を通してお告げがあった。結局、500m掘っても温泉は出なかった。中岸組全員に諦めムードが漂った。しかし燃えている厤は妻の秀子が止めるのも聞かずに「あと300mだけ勝負させてくれ。」と押し切った。昭和63年(1998)11月785mで26度の温泉が湧いた。そのことを県庁の部長さんに伝えると社会福祉法人の認可について考えてくれるという。平成2年(1990年)春、厤は県庁に呼ばれた。知事から「中岸君のねばり勝ちやね。」と言われた。厤の夢が叶った瞬間である。こうして人口4000人足らずの町に平成3年(1991)3月1日、特別養護老人ホーム熊野本宮園が開業した。

3、平成23年(2011)の台風12号(紀伊半島大水害)

熊野本宮園が開業してからちょうど20年目の年に大きな災難が降りかかった。宮城県沖でマグニチュード9.1の地震が起きた半年後、田辺市本宮町に台風12号がやってきた。三日三晩大雨が降り続いた結果、本宮町中心部は泥だらけで道には厚さ20センチの泥が溜まっていた。幸い当法人では人的被害はなかったが、家族を失った職員、家や財産を流された職員がいた……。職員達は自分の家のことはほったらかして施設に来てくれた。ろうそくの火をみんなで囲み悲しみを紛らわすために冗談を言い合ったりした。大雨で東へ通じる国道168号の16カ所が崖崩れ、西へ通じる国道311号の3カ所が崖崩れで私達は陸の孤島に取り残された。本宮町は停電、電話、携帯も繋がらない。熊野本宮園に唯一通じる県道静川請川線も崖崩れで道路ごともっていかれた。ターミナルの入居者をドクターヘリで輸送してもらった。職員が山越えして食料を運んだ。後で聞いたことだが、昔は同じ紀州藩だった三重県南部には自衛隊が私たちの所より10日間も早く到着していたらしい。台風12号による死者は紀伊半島南部で60名。ほとんどが和歌山県民だった。

4、きびしい環境

今年は、介護保険法改正の年で4月から報酬が平均で2.27%の減算がなされた。TVや新聞では「社会福祉法人が内部留保を溜めすぎている。」と厳しい内容が報道されている。現場では、マンパワーも不足している。EPAや職業訓練制度により東南アジアや中国から介護人材の受け入れが始まっているがもっと抜本的な移民受入策が必要ではないだろうか。

5、kumanoのプライド


私達は、介護福祉のプロとして認知症の利用者のお世話が出来て充実した日々を送っている。この仕事が田辺市本宮町にあるおかげで利用者と一緒に皿洗いや畑仕事、ドライブ、散歩などができる。こんな日々がずっと続いてくれたらいいのになぁと思っている。特別養護老人ホーム熊野本宮園が開業して24年経つが最初の8,9年間はきつかった。介護保険法ができる10年前でみんな介護の右も左も分からぬ素人だった。手探りでやった。ストレスが溜まり投げ出しそうになったことも1度や2度ではない。だけど本宮町民ががんばっている姿を見て同じ河竹沿いの熊野川町民(現・新宮市熊野川町)と奈良県十津川村民にも「テキら(本宮)に出来てワガら(私達)にできんはずない。」と、特別養護老人ホームを創る機運が盛り上がった。今では2地区とも良きライバルに育ってくれた。一番の精神的な頼りは、認知症の利用者がいつも応援してくれ、励ましてくれたから介護の仕事を続けてこれた。ストレスを感じない楽な仕事など世の中に存在しない。ただ介護福祉業界は、お客様である利用者から「ありがとうやで。」といってもらえる数少ない仕事の1つだ。TVで3K職場と言われても私たちはこの仕事に誇り思って一生懸命がんばっています。